ヒョードルの話がウクライナの友人からでたとき、私の印象は薄かった。会ったとき初めて格闘技の番組で見た事があるなと思った。しかし、わが社の若いスタッフに会ってきたというと、羨望の眼差しで見られたので、いかにスゴい人気かが解ってきた。
それ以上に、私の第一印象はきわめて確かなフィジカル・パワーを優しさに秘めているという感じだった。
男の肉体は、男の言語である。これだけの強い肉体を創り上げるには強い意思がなければならないだろう。男は肉体存在そのものでは女のように強くない。だから男はその存在を言語的な手段で外側に存在させてきた。
ヒョードルが優しくなれるのは、彼の意思ですばらしく、強靱な肉体を装備してきたからである。何も語らなくても肉体とその肉体があるがゆえの笑顔が多くの事を語っている。もちろんその筋肉のパフォーマンスによって巨漢を一撃で倒してきたリングでの伝説は彼を更なる大きな存在へと高めていく。
ヒョードルを目前にすると彼の意識化され、言語化された肉体に感動する。彼の存在の強さはそこにあるだけで充分に発言している。そして私は自分の口や手に頼った言語能力の弱さを感じてしまう。
「肉体化された言語」の重要性をいたいほど感じさせられるのである。
女性は好き嫌いと関係なく男性と生殖行為を行うことが可能である。しかも暴力的に何人もの男にレイプされる事もできる。それは肉体的な強さの本の一端である。性的な快感、子供をはらむ能力、いずれも男には持ち合わせる事ができない強さを原存在的に持っている。
女性の肉体存在としての強さは、本質的なものである。男性は他の動物のオスと同じく肉体の原存在は弱い生物である。男は言語的な身体を自分の意識化された努力で獲得していかなければならないのである。
ヒョードルの肉体は当然生まれながらのものではない。それに彼よりも巨漢はいても、彼の一撃にマットへ沈んでしまう。これを自己形成した。言語としての身体といわずしてなんというだろうか。
私は彼とウォッカを飲んで酩酊した。家に帰っていつもなら着ているパジャマも付けず裸で寝ていた。きっと歯も磨かなかったのだろう。自分の貧弱な、小声でしか発言しない肉体を見るのが嫌だったのだろう。
F1やプライドのファイトが若者に絶大な支持をされるのは、闘争という男の端的な言語表現以上に男の意識が外在化した発言する肉体の動きの美しさに魅入られているのである。ヒョードルが相手を倒すとき、多くの場合空しいほどあっけなく、だからこそ、その多大な期待と空白に近い断絶の落差に惹きつけられるのである。










