アーケード街が放棄したのは自由であった。商人にとって命であるべき個性的に営む自由であった。駅前商店街、地方の中心繁華街、メインストリートの多くにアーケードという近代日本人の悪しき相互依存の体質を象徴する建造物がある。私は若い頃からアーケードを非難し、否定し、攻撃してきた。
アーケードほど日本的な代物はない。商店街が雨天の客のためというマズイいいわけでアーケードをかけるのは、もっぱら補助金病という自分の腹を痛めずに、ミンナで話し合って、街を良くしようという幻想にひたれる、アマエの生活習慣病にかかってしまっているからなのだ。
アーケードを選ぶということは、2階3階以上の顔を放棄し、道行く人を雨水から守れるかもしれないが、ミンナのものであるべき青空を暴力的に奪ってしまうのだ。自分の店の伝統、個性を放棄しファサードのデザインする自由、ビルの個性を放棄しすることだ。伝統ある町並み、スカイラインを放棄することだ。
雨天の快適な通路と化したアーケード商店街はその先に進出する大型店にとってかっこうの進入路となり、サービス導線になりさがる。人が通過してしまうようになりアーケードまで商品が出てきて、店頭が売場化し店内でゆっくり回遊する客が来なくなる。アーケードに身売りしたときから個人では生きていけなくなり、制度資金を誘導した政治家の集票端末になり下がる。
車が通りにくくなったアーケード街とは別にバイパスができ、大販店、ディスカウント店に進出機会を与え、さらには郊外にSCを進出しやすくさせる。
ここまで来ると既存のアーケード街はシャッターが閉まりはじめ、シャッター通路と化し、悪ガキのキャンバスに成り果てる。









